意識はどこに存在するのか?
続きものです。
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意識を探す旅の始まり
さて、「どこに意識があるのか?」という問題についてどんな人が考えるのだろう?
哲学者もこの問題に取り組んでいたが、今となってはもう哲学は学問の最先端ではない。
その問題は現在、医学で取り扱われることの方が多い。
何故医学で意識が取り扱われるようになったんだろう?
それは「死」の定義の変更によるものだろう。
昔は「死」は心臓が止まって呼吸停止することだった。
「息をひきとる」とはそういうことだ。
だが、今はどうだろう?
心臓が止まっても、人工的に心臓を動かしてやればいい。
息が止まったら肺に直接空気を送り込んでやればいい。
人の体はとても死ににくくなった。
そして問題が起こった。
心臓が止まった人間は体は生き返っても意識が戻らないことがあった。
いわゆる植物状態というものだ。
医学会は議論した。
「意識がなくても生きているといえるのだろうか?」
「脳と言う体を動かす臓器が完全に機能を停止しても人は生きているといえるのだろうか?」
各学会の人々を集めて何日も議論した末、出した結論は
「死とは脳死した状態である」
であった。
人は脳がなくては体をかせない。
人が死ににくくなった結果、死の定義は
「心肺の停止」
↓
「脳の停止」
に変わったのだ。
さて、ここで医者に疑問生まれた。
意識とは脳のどの部分に宿るのだろう?
意識を探る方針
初めに方針を決める。
脳が意識を生み出すという論理は
脳が停止したら体が動かなくなる
↓
体が動かないと意識を観測できない
↓
意識が観測できないので意識がないと判断
という論法で成り立っている。
だが、
脳は意識を受信しているだけで本当は別のところに意識があるのではないか?
という論理を否定することはできない。
要するに
リモコンとテレビのような関係だ。
あなたの意識はリモコンで、テレビはあなたの体だと想像してほしい。
いくらテレビ(体)が壊れようともリモコン(意識)は無事だ。
テレビの電波を受信する部分(脳)が壊れてもリモコン(意識)が壊れるわけではない。
これを否定すること出来ないが、
現在このリモコン(意識)もリモコンから発せられる電波も観測されていない。
医学は観測主義なので、観測できないものはないものとする。
今回はこの観測主義で脳のどこに意識が宿っているのかを探る。
意識はどこに存在するのか
脳のパーツは大きく分けて3つ「小脳」「大脳」「脳幹」の3つに分けられる。
では、どのパーツに意識が宿っているか?
それを調べるのは簡単だ、それぞれ一つずつ壊れた人間を見ればいい。
脳が動いているかは電磁波を見ることでわかる。
脳は多くの数のニューロンとシナプスからできている。
何億ものニューロンがシナプスによってつながっている。
線路図を思い浮かべてほしい。
複雑に張り巡らされた線路がシナプスでニューロンは駅みたいな構造だ。
そして電車のようにシナプスにものすごく微弱な電気が流れているのだ。
電気が流れてるってことは観測するのは簡単だ。
おそらく中学生の頃に理科で行った実験で、
電流を流してコンパスが揺れ動く事で電気が流れていることを確かめる実験を行ったであろう。
それと同じで脳みその周りにものすごく精度の良いコンパスのようなものをおいて脳が活動しているか観測した。
以下の結果となった。
「小脳」が壊れた人間は意識はあるが、
体を動かすのが不自由になった。
たとえば、考えることはできるが、手を前に出すことが難しい。
頭で思っていることが、なかなか言葉に出せないなどの症状が発生した。
「大脳」が壊れた人間は体は動くが反応がなくなった。
普通に歩けるし、言葉を話すこともできる。
ただ、「おはよう」といっても見当違いなことを言うし、つねっても痛がらない。
「脳幹」が壊れた人間は全く動かなくなった。
電磁波で小脳も大脳も動いているのは観測できるのだが、
脳幹が壊れてしまうと人は何もできなくなってしまうのだ。
脳幹は大脳、小脳と神経をつないでいるから、体は動けなくなってしまうのだ。
これを見れば一目瞭然だろう。
意識は大脳に宿っていた。
大脳が破壊されれば人は意識が無くなる。
何も反応しないただ生きているだけの人間になるのだ。
だが、ここで脳を研究している人間に疑問が浮かんだ。
「脳はシナプスとニューロンと言う物質でできている。」
「それは大脳も小脳も同じだ。」
「じゃあ、何で大脳に意識が宿って小脳に宿らなかったのだろうか?」
「しかも、良く見てみると、シナプスとニューロンの数は小脳の方が2倍ぐらい多いじゃないか!!」
「大脳にだけ意識がある意味がわからない、、、」
何故大脳だけに意識が宿るのか?
続く(どうして大脳に意識は宿るのか?)